スペイン継承戦争 現代に残る不思議な飛び地
スペインの南端、地中海の出入り口に当たるジブラルタル海峡は、現在イギリスの海外領土となっている。明らかに不自然な領土だが、どのような経緯でイギリス領になったのだろうか。
スペイン継承問題
時は17世紀末、イングランド王国がグレートブリテン王国に変わったり、フランスでルイ14世が絶対王政を誇っていたころ。スペイン王家がカルロス2世で断絶し、スペインを誰が継承するか問題となった。
候補は
①先々代の娘の子であり、同じハプスブルク家で神聖ローマ皇帝のレオポルド1世
②先々代の娘を母に持ち、かつ先々代の孫の夫である、フランス王ルイ14世
③カルロス2世の同母姉の孫ホセ・フェルナンド
の3人だったが、①はハプスブルク家が強くなりすぎ、②はルイ14世の母と妻ともに王位継承権を放棄していたため、最善ではなかった。
③のホセ・フェルナンドを継承者とすることで各国がまとまったかに思えたが、ホセ・フェルナンドの死亡により、①レオポルド1世の次男のカール大公が担ぎ出された。しかしカルロス2世は遺言でルイ14世の孫のアンジュー公フィリップを後継者に指定した。
フィリップはフェリペ5世としてスペイン皇帝の位に就くが、ルイ14世はフェリペ5世がフランス王位を継ぐことを暗示したり、スペイン領ネーデルラントに領主であるバイエルン選帝侯の許可を得て進駐し、スペインの利権を奪い取るなど、威圧的な態度を取った。イギリスはフランスの強大化を恐れるオーストリア、オランダと対仏大同盟を結び、フェリペ5世の即位に反対、カール大公を擁した。
スペイン継承戦争(1701~1714)
フランス、スペイン、バイエルン VS オーストリア、イギリス、オランダ、プロイセン、ポルトガル、サヴォイア
フランス→スペインがほしい
イギリス→フランスの強大化は阻止
オランダ→フランスの膨張に危機感
1701年、スペイン領ミラノの奪還を目指すオーストリアが北イタリアに進軍。
1704年、地中海の拠点を求める大同盟が連合艦隊をジブラルタルに派遣、占領
1706年、北イタリアをオーストリアが制圧
1706年、ネーデルラントをイギリスが制圧
1709年、連合軍がフランス本国に攻め入り戦線膠着
1711年、兄が崩御したためカール大公が、カール6世として神聖ローマ皇帝に就任
次男で神聖ローマ皇帝にならないはずだったカール大公が即位したことにより、墺西合同が再び起こることになった。イギリスはハプスブルク家の強大化を恐れ、フランスと和平交渉を開始。西仏合同の疑念を払拭するためフェリペ5世がフランス王位継承権を放棄した。
終戦:ユトレヒト条約(1713年)
この条約により、戦争中占領していたジブラルタルはイギリスに割譲された。このときイギリスは地中海のミノルカ島、ハドソン湾(カナダ)、アカディア(アメリカ北東端)も得ている。
オーストリアはスペインからネーデルラント、ナポリ王国、ミラノ公国を獲得、サヴォイア公国はシチリア島を獲得した。
フランス、スペイン側にはその代わりにフェリペ5世の即位を認めた。
こうして得たジブラルタルが現在も残っており、これ以降イギリスが大きな負け戦をしていないことを示している。